満月カルテット試論 / A Tentative Assumption of Full Moon Quartet

満月カルテットの公演「明月の夜」のダイジェスト映像を観ながら、舞台の作り方についてのセルフライナーノート。

私たちのパフォーマンスのベースは即興表現(踊りがあるのであえて即興演奏とは言わないことにする。冗長な表現が今後も出てくるかもしれない)だが、あらかじめ作品のテーマをイメージとして共有する。ときにはいくつかの決め事を定めることはあれど、それははじめての作品「満月の夜の三部作」からずっと一貫している。テーマは「クジラ」や「ペチカ」のように具体的に存在する物事から、「冬銀河」のような抽象的なイメージ、あるいは「ポール・オースターのムーン・パレス」のように文学作品が取り上げられることもある。決め事とは、例えば「最初にピアノを私が弾いて、途中でふくいさんにバトンタッチする」というようなおおまかな構成であったり、キー・スケールをある程度決めておくこともあるが、それらはテーマを補足する目的なのでアバウトだし、実際にはその決め事が守られないことだってある。カルテットのひとり、吉家さんは踊りであるから、この方法は音楽家以外との共作にも良い方法だった。

実際にパフォーマンスを見返してみると、確かにテーマに沿って表現しているように思われる。観る人にとってもテーマを事前に知っていれば、より楽しく観ていただけるかもしれない。私たちはテーマに対するイメージを各々擦り合わせずにはじめるので、私のイメージするテーマの像と、カルテットの誰かのそれとの差異を演奏中に知り、そして受け入れたり主張したりしている感覚がある。そういう想像するイメージと実際の表現の間を行き来する意思は確かにあるように思われるのだが、これは私たちが何をテーマに表現しているか共有できている場を前提とする。例えばクジラをテーマに表現していたつもりでも、観る側にテーマを公開しなければ、クジラのイメージにたどり着くことは難しいかもしれない。踊りも音楽も多様な解釈が可能だから、クジラのパフォーマンスから桜餅の香りや高尾山の夜景を思い浮かべたりするかもしれないし、私自身も過去の演奏を聴きながら、きっとこんなテーマだっただろうと推察したものがてんで的外れだったりする。この一方通行な解釈を考えるとき、破壊編集や非可逆圧縮といったデータに関する用語を思い浮かべる。一度転じてしまったものは、そこから元には戻せないのだ。しかしテーマはパフォーマンスが立ち上がるきっかけであれば良く、そしてその一方向性こそ解釈の可能性を多様に開く、豊かさの鍵と言っても良いかもしれない。

何かのイメージを元に私たちがパフォーマンスをし、それを観る人がいるとき、そのイメージする何かが音楽と踊りに(多様な解釈が可能な形で)転換されている。文学作品は音楽と踊りになり、もしかするとその表現を文学へ還すこともできるかもしれないし(例えば、ポール・オースターのムーン・パレスをテーマにした満月カルテットのパフォーマンスを元に、小説を書いてみる)、あるいは映画や詩へと更に転じることもできるかもしれない。メルロ=ポンティはインスピレーションを得ることを霊感の呼吸に喩えた。インスパイアは霊感の吸気であり、呼吸(エクスパイア)はそれに対する表現であるなら、満月カルテットが試しているのは、表象の転換の軌跡であり、それは霊感の深呼吸なのだ。