Category: diary

async

昨晩はワタリウムにて、坂本龍一設置音楽展asyncへ。

5.1chサラウンドで音源が再生されている2Fのフロア“drowning”では、CDでは聞こえなかった音のレイヤーに気づく。
(文字通り、音に溺れるような体験。)

Zakkubalanのインスタレーション“volume”の映像は、製作時に多くの時間を過ごした空間を抽象的に捉えたものとのこと。
今作は「あまりに好きすぎて、誰にも聴かせたくない」という理由でサンプル盤の配布もなかったようだが、設置音楽展も坂本龍一のパーソナルな側面にフォーカスされていた。

ところで、展示に昨晩を選んだお目当てはこちら。
http://www.watarium.co.jp/exhibition/1704sakamoto/event/async_0513.pdf

トークで聞けたこと:坂本龍一曰く、笙は楽器の個体差というより演奏者によって音色が異なる、とのこと。
確かに、石川さんの笙は、石川さんだけの音。
(“Life, Life”の音源にさらに笙が重なっていく様子は感動的だった。。)

設置音楽展は5/28まで。
ぜひ、ゆっくり溺れてみてください。

at dawn

SARAVAH東京のイベントでご一緒したHeatMiserという女の子のCDを聴いている。

HeatMiserとは礒尾奈加子さんのソロプロジェクトの名前。彼女のウェブサイトには、本作のリリースに寄せてご本人のテクストが公開されている。そしてその最後には参考資料としてレコーディング期間の糧となったアルバムが並んでいる。

論文でも参考文献が必ず示されるように、音楽もひとつのテクスト=織物なのだ。織物が糸の編み合わせによって作られるように、音楽も歴史の編み合わせでできている。彼女の音楽の豊かさも、その糸ひとつひとつに根拠がある。

音楽は魔法のようだけれど、作られるプロセスは魔術などではないのだ。

彼女の音楽を聴くことは、現在の音楽を聴くことでもあり、過去や歴史とつながることでもある。そして、過去とつながることは未来へ続こうとする意思だ。つまり未来が信じられなければ歴史もむなしいが、at dawnを聴き終えた頃、また私たちは先へ歩みを進める意思をひそかに取り戻すのだ。

http://www.flakerecords.com/rcminfo.php?CODE=25430

Thanks for coming @Saravah Tokyo 20170428

昨晩はSARAVAH東京にてピアノソロ。ご来場いただきありがとうございました。

A canary in a coal mine

マーシャル・マクルーハンを読み返し、学生の頃に鉛筆で線を引いた箇所とは異なる点に興味が向く。

彼は芸術家を新しいテクノロジーによる変容を事前に察知するアンテナに見立てた。カート・ヴォネガットの「坑道のカナリア」とも通い合う。“super sensitive”で、弱くあり続けること。

ニュースをつける度に強くあろうとすることの弱さを見ることになる。今のこの国や世界の状況を反面教師に見立てると、弱くあり続けることの強さも見えてくるように思う。

今年も桜が咲きました。
毎年同じ花をつけているようで違う花。
年月は新たなれども人は古りゆく。

倹しく

長い間、ぼんやり考えていたことを少し。

いま、清貧を金科玉条とする人がどれだけいるだろう。と、書店の平積みや広告を横目に時折思う。これだけ富が一部に集まると、その一員に加わりたいと思うのか。「人より先に職を求めんとし、人より先に富をつくろうとする」(永井荷風・濹東綺譚)ことに躍起になっている。老子の教えは、世の人の先に立たず倹しく生きること。

尾を泥中に曳く(荘子)宮仕えよりも、静かに生きること。人知れず泥の中に尾を曳く亀のように。沂に浴し、舞雩に風し、詠じて帰らん(孔子)。しかし政治に対し積極的参与を勧めないからといって、皆が出家したり田舎で農業に従事するべきだというのも、それで皆が(社会が)うまくいく訳ではないので、何事も付かず離れずで丁度良いのかもしれない。

お金があれば欲しいものが買える。欲しい物の多い人は、買えども買えども新しい欲しい物に苛まれているようにみえる。本当の自由とは買わなくても済むことだ。人は買った途端に幻滅するから次々とアップデートしてゆくのがマーケティングの基本らしい。次々と新しい物で消費者を捕らえて離さないのは監獄のようなものだが、無意味に新しい物を量産しなければならない宿命は音楽家も同じことだ。

私は健康でいられればそれでいいかな(しかし健康であるためにはそれなりのお金が必要だ!)。肥えた豚にはなりたくないが、飢えたソクラテスにならなくてもよい。

今年は、堀坂有紀とのユニット「静かの基地」のための作曲がメイン。アルバム制作が進行中で、田村凌一さんの新作映画も「静かの基地」で担当した。

作品をつくる度に、過去の自分と比較しては変わらないことをやっているのだと感じる。そうやって同じ円をぐるぐると回っているが、円そのものを書き換え、アップデートしてゆく。先ほど書いた次々と新しい物をつくるのも、同じことなのかもしれないと書いていて思う。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

季節のめぐりも、円運動のようだ。

〽︎冬過ぎて春し来れば年月は新たなれども人は古りゆく

寒さをぶり返しながら、少しずつ春の気配ですね。インフルエンザがまわりでもはやっています。みなさまご自愛ください。春まで、あと少し。

12月の作曲

Gathered Petalsをリリースして、もうすぐ2年。その頃に考えていたことは、今とはすこし異なるので、Gathered Petals#2と題してピアノソロ第二弾を作曲していました。結果的には、アップデートを試みるつもりが、同じことをしていることに気づいてすべて破棄。そんな師走の作曲だったけれど、Petals#2の予告だけは書いてしまおうと思います。ピアノソロはひとつのライフワークのようなものなのです。

Arve Henriksenというトランペッターのアルバムを聴きながら、身体から離れずに作曲する方法について考える。作曲してしまうと、身体からすこし距離ができてしまうように感じるのです。身体に委ねて演奏するための方法として、モートン・フェルドマンのアバウトな楽譜や高橋悠治さんの断片を選んで弾くものもの、ケージのタイムブラケットなどを見返してみる。弾いてみる。Petalsも、「身体」をひとつのキーワードとして考えてみる。

石川高さんに笙の演奏法や朗詠について、ご説明をいただける機会に恵まれました。石川さんは笙の演奏家ながら、古典だけでなく外の世界にも精通されていらっしゃるので、メシアンの「我が音楽語法」の話で盛り上がったり。伝統音楽を楽理的に分析しようとしてしまう私に、石川さんから至宝の一言。伝統音楽は、その音楽が演奏されていた時代のことを学ぶことが理解につながりますよ、と。そういえば、その頃の暮らしや価値観に思いを馳せて、源氏物語や枕草子を読んだこと、なかった。博学な石川さんからは、七夕のことも教わりました。なぜ、「七夕」で「たなばた」と読むのか。乞巧奠や棚機女の話。それから、石川さんがシュトックハウゼンの「歴年」という邦楽器のための曲を演奏したときの話。

BGMを担当したアプリが人気なようで、うれしい限りです。
メインテーマを公開しました。

 

写真は、その作業中のひとこま。

UPDATE

ジェフ・ミルズの新作アルバム『Planets』の先行リスニング&トークイベントのために科学未来館へ行ってきました。ドームシアターで、星空を借景に太陽系とその距離が映し出され、各惑星を旅するようなかたち。各惑星だけでなく、その”あいだ”も大切に扱われているようです。

“Planets”といえばホルストによるものが有名ですが(正しくは”The Planets”)、彼の作品は天文学ではなく占星術による惑星のイメージを題材にしていることに対して、ジェフ・ミルズの”Planets”は科学の視座に基づいているそうです。例えば、質量や物質的な特徴など。そして科学には新しい発見がつきものなので、作品そのものもアップデートされるとのことでした。実際、冥王星に水があるとわかってから、冥王星のセクションには地球と似たモチーフを後から導入した、とのことでした。

ふと、ブルーノ・ラトゥールが今夏の来日公演で、アーティストが地球を外側からみる視点について話していたのを想起しました。”Planets”も、太陽系という大きな枠組みから、地球はあくまでその一員であることを意識させるものだったから。そして、作品がアップデートされていく=未完のまま残されることに、生命の姿を重ね合わせることもできるかもしれない、なんていうことを考えていたのでした。

(閑話休題)

メモ:ただ同じように繰り返すのではなく、ちょっとずつ違う形で繰り返していく。例えば、ピアノ・ソナタの繰り返しもまったく同じようには再現しないように。そうやってフレーズを繰り返すごとに、なにかアップデートされていく仕組みを作れないか。

何年も前の冬に、過ぎゆく時間の痛みと喪失感について書いたことを思い出しました。齢を重ねるとは、秋から冬への旅路のようなものだと思っていのです。(春が来るのは、その先の話)

いま思うのは、失うものもあれば入れ替わるように得られるものもあるということ。枯れ果て朽ちていくばかりではないでしょう。私たちも、私たち自身をアップデートしていくのだ。

thanks for coming 20160924

9月24日、水道橋Ftarriにて「てとおと」と題してコンサートを企画させていただきました。お越しいただきましたみなさま、ありがとうございました。

堀坂有紀とのユニット『静かの基地』に笙の石川高さんをお招きして3人編成での演奏。石川さんの笙の音色がとにかく素敵だったので、演奏中もどこか遠くの世界へ誘われるようでした。

秋山徹次さんと増渕顕史さんのデュオは、増渕さんの演奏を大久保のブエナで拝聴して以来、ずっと観てみたかったセットなので思いきって組めてよかった。おふたりのアコースティックギターや石川さんの笙の演奏に触れて、美しい音色が雰囲気の強度を持続させるのだと感じた一夜でした。

私たちは、MC一切なしで曲目をやりきったのですが、これが良い緊張感が持続できてよかった。時と場合によるけれど、始まりから終わりまで一息で駆け抜けるような緊張感が心地よい。

すこしだけご紹介できなかった曲目をメモしておきます。1曲目から順に、南部鉄器の風鈴と声、ピアノ、笙によるインプロヴィゼーション。ボーカルのルーパーによるクラスター上に笙とピアノを重ねる試み。堀坂の作曲「連れる・固まる・ずれる」はセット中唯一の音の余白のある曲。笙と竽の合奏をイメージするために笙をコンピュータで1オクターブ低く再生する試み。バイオリン・ボーカル・ピアノ・笙による「From Afar」は何度も私がライブで挑戦している曲の改定稿。最後の曲目は宮沢賢治作詞・作曲の「星めぐりの歌」を編曲したもの。

作曲ができて、ある程度の楽器に精通し、打ち込みができるようになると、どんな音楽でもコンピュータがあればひとりで作れてしまうけれど、ひとりだけでは決して作れない音楽があり、それを共作できる環境にとても感謝しています。

thanks for coming 20160612

6月12日、新しいユニット「静かの基地」の初ライブ、企画でした。ご出演いただきましたに角すいのおふたり、毛玉の黒澤勇人さん、そして足をお運びいただきましたお客さまへ、ありがとうございました。

まだまだはじまったばかりのユニットですが、今後もゆっくりと歩んでいきたいと思います。

(書きたいことは山ほどあるけれど、それはまた後で。。)

From Afar

池袋Bar Hakuにて、中元寺隆夢さんの個展「怪獣伯覧会」会期中です。

そのオープニングパーティにて声楽家の岩渕絵里さんと2曲演奏させていただきました。曲目はシューマンのズライカの歌と、自作曲”From Afar”。

“From Afar”の当日のライブ音源を公開しました。

この曲はもともと、ホリサカユキとのユニット「静かの基地」のために、ホリサカユキのバイオリンと声のために書かれた曲。解釈や楽器まで任意なので、この音源はもうひとつの別バージョンということになります。演奏するひとや、その時々によって異なる結果がありえることがおもしろい。

静かの基地は6月12日(日)東中野coupe cafeにてコンサートを企画しました。こちらはまた違う雰囲気になると思います。日本の歌曲から電子音響まで、堀坂さんの柔軟な感性は横断できるのでとても楽しみ。

さて、「怪獣伯覧会」の会期は6月4日まで。 入場は無料ですが、飲食店なのでオーダーをお願いします。

個展 : 怪獣伯覧会 Kaiju HAKUrankai

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